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支線沿線〈5〉 記号化する言葉から逃れるために(濱松哲朗)

 先日、角川「短歌」編集部の企画の下、「学生短歌バトル2015」という大学対抗歌合に参加してきた。当日の模様はニコニコ生放送でインターネット中継されていたが、番組中継終了時点で再生が1200件を超えたと聞く。立命短歌は残念ながら一回戦で敗退したため、僕は会場の控えスペースで、音声は目の前の歌合のテーブルから、画像は中継の画面からそれぞれ拾いながら観戦していたのだが(考えてみたら凄い状況だ)、それでもなかなか面白かった。イベントに関しては事前に色々と問題が発生したこともあったわけだが、結果としては成功だったと言えるだろう。

 さて、当日の歌の中で、次のものが話題になった。

雪の上に雪がまた降る 東北といふ一枚のおほきな葉書
          工藤玲音(東北大学短歌会)



 今回の最優秀方人に選ばれた一首である。白の上に白が重なり、まだ何も記されていない葉書のイメージが強調される。「東北」という、重い記憶を背負った土地であるからこそ、これからここに何かを書いていこう、という前向きな姿勢も感じられる。当日のゲストであった小島ゆかりが激賞した。

 だが、ここで正直に言うと、最初に角川から送られてきた歌稿でこの歌を目にした時、僕自身は「東北」の語に引っかかって、読み下すのをどこかで諦めてしまっていたところがある。雪に覆われた土地の白さだったら「北海道」でも葉書になるだろう、単に故郷を詠んだだけなら、もっと場所の魅力が出てきても良いのでは――、などと反論を用意していたくらいだ。

 この歌の「東北」は当然ながら、震災以後の東北という文脈で読まれる可能性が高い。可能性、という言い方をしたのは、作者が「東北」に含まれる言外の意味について何も言及していないので、断定は出来ないためである。しかしながら、葉書という、何かを記して誰かへ伝える役割を荷ったものと重ねられた「東北」には、どうしても震災や、その後の生活の場所としての東北が想起される。厳しい冬が繰り返される土地に〈私〉は生きている。そしてこの土地は、一度すべてが失われた土地でもある。葉書に記されるものはだから、そんな東北に生きる、数多くの〈私〉の姿である。そう思って読むと、確かに強く胸を揺さぶられてくる。それならば、やはりこの歌の「東北」は、他の土地(例えば「北海道」や「新潟」など)に置き換えることが不可能なものとして読んだ方が良いのだろう。

 一首の中に登場する、文脈としての「東北」を如何に評価して良いものか、僕は今も判断に迷うことがある。工藤の歌を読んだ時にも、ともすれば「東北」という言葉が、言外の意味を背負った記号としての機能しか果たしていないのではないか、という目で見てしまったから、判断を保留してしまった。それは僕にとって、もはや反射的な行動だったようにも思う。

 だから、この作品が東北大学短歌会に所属する工藤の作品だと知った時には、安心した(作品の作者は歌合の試合まで学生には一切発表されていなかったのである)。この「東北」は生きている、と思ったのだ。

 「東北」という語が一首において、重い記憶ばかりを引き出す装置として機械的に働いてしまうことを、僕は今も恐れている。作品として優れていれば文句はないが、そうではないものもこの数年の間で山のように見てきた。そこに書かれていたのはあくまで記号化された「東北」であって、生きた土地としての東北では決してなかった。加えて、評をする側も、「東北」の語に抱え込まれた文脈によって、批評が足踏みしてしまうことがあった。震災のことだから、原発のことだから、と言って、結局は歌の中の「東北」に正面から向き合えていないのである。あたかも、最初に工藤の歌に触れた時の僕のように。

安置所に横たはりたるからだからだ ガス屋の小父さんもゐたりけり
          梶原さい子『リアス/椿』(2014)
湯の内を浮き上がりたるまろき玉どの瞬間にひとは逝きしか
わたくしの小さき頃より絶え間なく小母ちやんたちの金歯の光る
雑食の蛸であるゆゑ太すぎる今年の足を皆畏れたり



 梶原さい子の『リアス/椿』に描かれた東北は、被災地である以上に、作者を含めた人々の生活する場所としての東北である。歌集は「以前」と「以後」の二つの部分から形成されているが、「以前」の部があるからこそ、「以後」の部においても場面が、記号化した「東北」に陥ることなく、生身の姿のままで描かれていると言えるだろう。

 一首目、特定の知り合いが「ガス屋の小父さん」と特記されることで浮かび上がる、「ガス屋の小父さん」以外のその他大勢の「横たはりたるからだ」の存在感に慄く。四首目は震災の翌年の一月の歌であるが、このショッキングな連想の背景にあるのは、〈生き残ってしまった〉という感覚だ。海で死んだものは海の生き物に食われ、海の生き物は生き残った人間に食われる。自然であるがゆえに残酷な節理を前にして、歌は立ちどまる。――何故、私ではなかったのか。私はどうして生き残って、無事に年を越しているのか。被災地に暮らす者の言葉としてはかなり重いものを含んでいる。

 一方で、二首目や三首目は、それ単体で読んだ際には、震災という文脈からも、勿論「東北」からも切れたものとして読むことが可能である。梶原は何も、「東北」というものを書きたいのではない。彼女が書きたいのは、恐らく、この場所でこれまでも、これからも生き続ける人間の生活であり、記憶であり、感情である。

束であり一本づつであることの東北の野に枯荻そよぐ
震災詠はもういいぢやない 座布団の薄きの上に言はれてをりぬ



 僕は去年、震災詠に関する評論で結社内の評論賞を受賞したが、選考委員の中で、梶原だけは僕の評論に丸を付けなかった。震災詠で当事者性ばかりが問題にされ、当事者であることがそのまま作品への評価となっているようでは困る、という序論から始まる評論に、『リアス/椿』の作者が賛同するとは確かに思えない。そして何より梶原は実作を通して、当事者である身に安住することなく、〈私〉の身の回りのあらゆる営みの有り様を、リアリズムの手法で生き生きと描き切った。僕はこの歌集を読んで、実は梶原本人が、当事者性などという概念から一番遠いところにいるのではないか、と考えた。自分たちの生活に土足で迫ってくる記号的表現や抽象的概念を、注意深く払いのけながら作り続けたものが、『リアス/椿』の後半の歌たちなのではないか。そう感じたからこそ、僕にはこの歌集が、賞の選評以上に重く響いたのである。

(関係ないが、僕の評論賞受賞作は未だに、「震災」を扱った点だけが評価されて受賞に至ったのだろう、どうして誌面に選考経過を出さなかったのか、等という陰口が堂々と結社誌の座談会記録に掲載されるほど、すこぶる評判が悪い。はっきり言って、「震災詠」の評論である時点で嫌な目で見られている、あるいは、まともに読まれていない。記号化迷惑の典型である。)

 自分が当事者であるという自覚は、その後の変化のためにこそ有効なものであり、当事者であることに安住した瞬間、歌人の中の〈私〉は腐敗する。当事者、という概念によってリアルな〈私〉が殺されるのだ。だがこの世界は、季節も、風景も、人も、そして〈私〉も、全ては変化し続ける存在である。繰り返される死者への祈りの歌は、脈々とした営みの中にあるからこそ輝く。

 震災から間もなく四年が経過する。「三月」という言葉自体が、戦争の「八月」や安保の「六月」のような文脈を持ち始めているようにすら思われる今、自分たちが口走る「震災」や「東北」が概念化・記号化していないかどうか、そろそろ再検討する必要があるだろう。結局僕たちは誰もが当事者になれるのだ。次に必要なことは、「当事者」という概念に対する絶望だろう。言葉は時に、概念化・記号化の力で〈私〉をがんじがらめにする。言葉への絶望の向こうに、それでもいきいきと言葉を紡ぐ作家を、僕は信用したい。
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支線沿線〈4〉 あたらしい読者を求めて(濱松哲朗)

 前回、「作家は自己の精神的種族保存拡大のために書く」のであり、「心の底から通じ合えるような、通じ合い得ているような」「自己の精神的種族を同時代からばかりでなく、時代を超えて保存拡大のために書く」のであるという、河野多惠子の言葉を引きながら、創作における作者と読者の関係、すなわち、言葉という〈他者〉を介在して成立するコミュニケーションの在り様について考察を始めたところであった。

 繰り返しになるかもしれないが、作者という〈私〉にとって、読者が〈他者〉である以前に、言葉そのものがまず〈他者〉なのである。作品がどんなに独自の表現であったとしても、言葉(表象記号と言い換えても良い)である限り、作品は自ずと他者性を含有している。〈私〉の作品が理解されないと言って過剰に嘆く作家は、まずはおのれの言語観を省みて、言語を通じて〈他者〉を受け容れる姿勢を身に着けた方が賢明であるし、一方で、読者の方も、どうせ私には理解できないのだと諦めてしまうのではなく、きちんとコミュニケーションの回路を開いておく必要がある。その際、作品を「理解する」ことが、イコール「伝わる」こと、ではないことに注意しておくべきだろう。

 この「理解する」という行為の難しさについて、一ノ関忠人は「現代短歌新聞」2015年1月号において、今の二十代、三十代の歌人が作る短歌について次のように書いている。

 穂村弘以後という確認ができたものの、理解は届かない。生沼(義朗)は「重要なのは各作者が意識的に解体と新陳代謝を起こしていることだ」と言い、更に次の後続世代が出て来た時に成果が明瞭になると書く。その時まだ彼らはこのような作品を作りつづけているのだろうか。
          一ノ関忠人「世代間断層」(「現代短歌新聞」2015年1月号)



 一ノ関の短い記事の中に名前が挙がっていた若い歌人とは、順に、吉岡太朗、永井祐、堂園昌彦、望月裕二郎、瀬戸夏子である。そして、理解に苦しんでいる上の世代の例として、「短歌研究」2014年11月号の作品季評における小池光、さいとうなおこ、森本平の三名による『ひだりききの機械』評、生沼義朗の「解体そして新陳代謝」(「短歌人」2014年10月号)、山田消児「謎のありか」(「路上」130号)を挙げている。

 実際、「短歌研究」誌上で吉岡太朗の『ひだりききの機械』が取り上げられた時は、三人の評の息苦しさに驚きながら読んだものだ。何より、読者としての小池、さいとう、森本の三名が、ちっとも楽しくなさそうなのである。座談会からは、苦しみながら読んだ、という印象がぬぐえない。これが一ノ関の言う「世代間断層」なのだろうか。

小池 作品というのはもっと客観的なものであって、読者がいて、その間でコミュニケーションが交わされないと作品が作品にならないという感じがする。その手前で少し自閉しちゃっているような感じがあるから。これは壁に向かってボールを投げているような感じがするんだね。受け取り手との間でボールのやりとりをしているかというと、やはりそれはしていないので。していないというよりも、することを拒否している感じがして。
森本 たぶん作者の中で、読者ってある程度無意識の枠があると思うんですよ。だから伝わらない人には多分伝わらないと思うし、必ずしもそれをいい悪いとかいうレベルで考えていない、というより想定外の読者は、文字通り想定の外にしている気がするんですよ。
          (「作品季評〈第92回・後半〉」「短歌研究」2014年11月号)



 確かに『ひだりききの機械』には、読者への挑戦と言えるような作品が散見される。「短歌研究」の「作品季評」欄では、コーナーの冒頭に対象となる作品から数首引用されているのが、『ひだりききの機械』からの引用13首は、この三人が「理解する」ことの出来たものに留まっていて、歌集のほんの一部分しか見られていない印象がぬぐえないものだった。

兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
          吉岡太朗『ひだりききの機械』(2014)
ローソンを出るとガストでガストから出ようとするとローソンである
本当は誰のもんやろ構造上流れんはずのわしん涙は
もらさんことに執着しとるひとびとよ ほらあんたもさうなんやろ
OBはもうマンモスになっていてかみ合わなかったすべての会話



 13首の引用と被らないように5首を引いた。吉岡の作品に表出したエネルギーは、世界が、あるいは自らが造られたものであるという自覚に基づいた、痛みのような悲哀である。日常の背後に普段は隠れてしまっている論理が、短歌を通して顕在化する。しかも、吉岡が指摘するものは、誰もが気づいていながら、あまり口にはしたがらないことであり、まさに世界の影の論理というべきものたちである。一首目、「製造番号」と呼ぶことで自らを機械のように表現しているが、同時にセックスを人間製造の機能として表現している。自分の両親の性愛なんて確かに想像したくないが、彼らの性交渉が無かったら自分は存在していない。世界の論理としてここまで嫌なものはないだろう。消費社会、就職氷河期などは分かりやすい例で、四首目に至っては、人間の排泄や糞便の話である。しかしこれとて、生物にとって必然の論理であって、逃れることができないものである。

 三首目はもしかすると、吉岡の絶唱と言えるのではないだろうか。「構造上」という言葉が気になる、という見解はあるだろうが、それならば何故、作者が「構造上」と歌に詠まねばならなかったのかを考えた方が、読みとしては断然誠実である。そして、読みの誠実さは世代格差によって失われるものではないことくらい、おのずと分かるものである。「世代間断層」といった意味のことが叫ばれる時の構図が、十中八九、上の世代から下の世代を見た時の言葉であることに、私は強い危惧を感じる。むしろ若手の方が短歌史をフラットに俯瞰することが出来る立場にいるのではないのか、と思えてしまう。

 世代ごとにそれぞれ、当然とされる認識の背景や生まれ育った社会環境などが異なってくることは、いつの時代も言えることである。ただ、文学作品はそれを超えて読まれるべきものではないのか。歌集を読む時に真っ先に奥付を見て、作者の生年や所属を見てしまうようでは、「世代間断層」は埋まらない。仮に、吉岡の作品がどういった「精神的種族」を保存拡大しようとしているのかが読み解きづらいものであるとしたら(個人的には、吉岡作品はテーマが明確であるがゆえに、堂園や瀬戸よりも格段に「伝わりやすい」作品だと思うのだが)、我こそは吉岡の読者であると信ずるものが、積極的に吉岡を論じていく必要があるだろう。それが、いい読者であろうとすることではないのだろうか。

 合評に参加した三名とて、必ずしも吉岡の作品を根っから拒絶しているわけではない。むしろ、年の離れた吉岡の歌集をどうやって自分たちが読み解いたら良いのか、積極的に悩み抜いているように見える。その点に私は好感を持った。

さいとう この人のは疲れなかった。なぜかわからないけど。
小池 それは良い読者ですよ。
さいとう いい読者でありたいと思って読んだということは、確かに言えていますけど。
小池 一生懸命読んだけど、やはりねえ。



 吉岡の作品は今月、二度目の批評会にかけられることになっている。「世代間断層」が仮に存在しているとしたら、私たちはそれを埋めるために、「精神的種族保存拡大」に努めなければならない。それが優れた読みの提示によって為されることは、短歌史の中でも明らかであるはずだ。そして、「精神的種族保存拡大」を強く願ってやまないのは、何より吉岡本人ではないだろうか。関西と関東で二度開かれることで、作品の読みが深まることを、あたらしい読者が誕生することを、作者自身が待ちわびてやまないのではないだろうか。――私はこんなことを強く思わざるを得ないのである。


  適切に配置されたらぼくたちは各々適宜ゆるキャラになる
プロフィール

りったん

Author:りったん
第五次立命館大学短歌会です。40年の時を経て、2012年9月25日(火)に再結成しました。通称:立命短歌会。りったん。大学公認団体です。

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