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支線沿線〈6〉 弾丸は誰に向けて撃つのか(濱松哲朗)

 決して怠けていたわけではないのだが、年度末から年度初めの忙しさと心身の不調とが重なって、何もかもが億劫だった日が続いた。その間に多くの人から信頼を失ったような気がするし、僕自身も疑心暗鬼に苛まれた。それでもこうして、縋りついて歌を作り、読んでいるのだから、短歌ってありがたい。

 それはさておき、である。先日、立命短歌のメンバーで、LINE上で歌合をしたことがあった。ニコニコ生放送で中継された「学生短歌バトル2015」に向けて、歌合の練習をしようと考えていたのだが、大学が春休み真っ只中のせいもあってなかなかメンバーが一ヶ所に集うことができない(学生はどうせ暇、という昭和な発想は、良識ある皆さんにはぜひ捨てて頂きたい)。

 そこで、苦肉の策として考え付いたのが、LINEのグループトークを掲示板のように用いて評を書き込んでいく、というスタイルである。念のために書くと、LINE(ライン)とは一種のSNS機能で、二者間のメールや通話はもちろん、複数人のグループでのテキストチャットも可能という、手軽な(それために犯罪などとの関連も指摘されやすい)アプリケーションである。

 何よりもまず評の練習が最優先、ということもあって、歌は手持ちの歌集やアンソロジーから適宜引いて行った。おかげで、小高賢VS吉岡太朗という現実では絶対にありえなかった組み合わせや、田中ましろVS石川美南という文学フリマのブース配置のような対決が発生し、なかなか面白かった。

 このLINE歌合において、僕は毎回判者を務めていたのだが、その中でも特に印象に残ったのが、次の歌が評にかけられた時である。

愛してるどんな明日でも生き残るために硝子の弾丸を撃つ
          田丸まひる『硝子のボレット』(2014)



 この時、グループ分けが偶然にも男性チームと女性チームに分かれていたので、僕は敢えて、男性チームにこの歌を擁護させ、女性チームにこの歌を批判させるよう、わざと仕向けておいた。そして、普段の自分の好みとは全く別のベクトルから語らなければならなくなったメンバーは、僕の思惑通りになかなか困り果てたようで(分かっていてやりました。ごめんね)、15分ほどLINEトークが沈黙するほどであった。

 そして、15分後に始まった論戦ではこの歌の読みが、歌合の勝負と関係ないところで、男女でものの見事に真っ二つに分かれてしまったのである。これは僕の想定以上の出来事だった。以下、その時のLINEのトークから幾つかの評を引用する。

〈男性チームによる評〉
・生き残るためとしては少し不自然な硝子の弾丸。硝子には綺麗だが脆いというようなイメージがつく。この弾丸にもそのようなイメージがあり、撃った後にはすぐに壊れてしまうのだろう、というような連想ができる。
・撃った瞬間バラバラになり相手には届かない。結果、相手とは結ばれず、失恋の歌であることがうかがえる。

〈女性チームによる評〉
・愛する存在の為にはどんな犠牲も厭わない。自ら引き金を引いて守り、手に入れるという強さを感じられる。
・とても強い意思の歌。撃てば砕けてしまう硝子の弾丸を撃ち込むように必死にひたむきに愛して生きて行くという表明であるのでしょう。



 要するに、男性チームはこの歌を失恋の歌や、叶わぬ恋の歌であるという風に捉えたのに対して、女性チームは全く正反対に、情熱的で強い意思を持った恋愛の歌だと読んだのである。

 しかも、男性チームは弾丸を、恋の相手に向けて撃つものと解釈していたのに対し、女性チームは自分たちの外部に向けて、恋を守るために撃ち放すものだと考えていた。

 この時のLINEはあまりに紛糾して、本来はこの歌を批判しなければならなかった女性チームが男性チームの失恋読みに対して「今『ちゃうねん!』て叫んでしまったわ」「男子軍と女子軍の捉え方が違いすぎてもどかしかったです」と発言するに至り、結果、歌合の勝負どころではなくなってしまった(この番は最終的に引き分けとした)。

 試合後、歌に関する感想を、歌合の勝敗とは関係なく話してもらったところ、

〈男性チーム〉
・硝子の弾丸を「キューピッドの矢」的なものと想像していました。
・正直内容よりも雰囲気で読みたい。少年漫画のワンシーン的な。

〈女性チーム〉
・硝子の武器で劣勢ながら、血みどろになりながらも自分の愛する存在を守り、他は切り捨てる強い感じ、けどやはり脆弱ってのが良いのに。
・ぎりぎりで崩れない強さっていうのがいいのに。



 という感想が聞かれた。こんなに男女で歌の読みが分かれるとは思っていなかったので、不思議だった。

 ここでふと、こうした「読み」のジェンダーはどこから発生するのだろうか、と考えてみる。「読み」というものは、それぞれの読者が過去に触れた文化や思想などが堆積した上に立ちのぼる煙のようなもので、その実態を掴むのは容易ではない。しかし、今回は学生短歌会の、ほぼ同世代の人間が集まって歌を読んだこともあり、たとえば幼少期に観たテレビ番組や読んできた漫画・小説の類は一致するものも多いだろう。

 ここからは僕の直感的な感想なので、何の裏づけもないのだが、「男の子向け」「女の子向け」とされるものが堆積させていくなかで、それぞれ「ヒーロー的なもの」と「ヒロイン的なもの」のイメージが形成されるのではないだろうか。

 今回の『硝子のボレット』の読みであれば、男性チームは「〈私〉が相手に向けて弾丸を撃つが、硝子の弾丸は砕けてしまい相手には届かない」という読みを提示した。手に入れたい対象に対して銃を向けようとする行為、そして、目標に到達しないことを無力さであるとする把握には、裏返しのヒロイズムがあるように思う。

 反対に、女性チームは「脆弱な硝子の弾丸でありながらも、〈私〉と相手の関係を守り抜きたいという強い意思のある恋愛」だと解釈した。二者の恋愛関係を守ろうとする姿勢、自分の弱さを認識しつつも戦う屈折感からは、最終回には幸せを用意されているある種のヒロイン像がかすんで見える。

 加えて、男性チームは「撃ち抜く」という一瞬の行為を語る一方で、女性チームが「守る」という継続的行為を語っている点にも注目したい。この構図は、河野裕子が「母性」を語る時の構図と全く同じであると言える。

 男が短い有限の生、一回性の生でもって、その存在を完結するしかないのに対して、女たちは何百万年の昔から孕み、産み、育てて来たのである。いのちに対する感受や、考え方に、より本質に関わった独自性があるのは、女の内なる自然性や、生命律のうえからいっても、当然のことである。
          河野裕子『体あたり現代短歌』(1991)「いのちを見つめる――母性を中心として」



 この河野の論に対抗しようと試みた吉川宏志の「妊娠・出産をめぐる人間関係の変容――男性歌人を中心に――」(1994)から、既に20年以上が過ぎた。最近では、「本郷短歌」第3号(2014)が「短歌×ジェンダー――身体・こころ・言葉――」という特集を組んだことも記憶に新しい。

 だが、本当の意味で、議論は進んでいるのだろうか。特に、「読み」のジェンダーに関しては、語る人みずからの性の形成にまで立ち返らなければならないから、話が容易ではない。けれども、いま大切なことは、立ち止って考えてみることであるとも思う。

 事実、今回は作者名つきで歌を提示したせいもあって、田丸の歌の〈私〉を女性であると、誰もが信じて疑わなかった。私たちは言葉のどこから「性」を読み解いているのか。もしここに、服部恵典が「性別当てゲーム」あるいは「性別当て」であると指摘した類のバイアスが存在するのだとしたら、私たちはもう一度、おのれを疑ってみる必要が、あるのではないだろうか。
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プロフィール

りったん

Author:りったん
第五次立命館大学短歌会です。40年の時を経て、2012年9月25日(火)に再結成しました。通称:立命短歌会。りったん。大学公認団体です。

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