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支線沿線〈3〉 精神的種族保存拡大について(濱松哲朗)

 作家の河野多惠子が亡くなった。昨年(二〇一四年)、文化勲章を受章されたばかりで、まだまだお元気だと思っていただけに残念である。僕は河野多惠子のよい読者では決してないのだが(よい読者とは、その作家の作品をほぼ網羅している人のことである)、彼女の小説やエッセイ、そして、芥川賞等での選評は記憶に残るものが多い。

 晩年の河野に、『小説の秘密をめぐる十二章』(二〇〇二年)という優れた創作論がある。タイトルからも分かるように、これはいわゆる小説入門の本であるが、短歌や詩など他の文芸ジャンルにとっても参考になる言葉が散りばめられていて、未読の方にはぜひお勧めしたい一冊である。絶版のようだが、文庫にもなった著作なので、まだまだ手に入りやすいと思われる。

 その中で河野は、書くという行為について、生田長江と佐藤春夫の言葉に触れつつ次のように記している。

 要するに、作家は自己の精神的種族保存拡大のために書くのである。何だか物々しく聞えるかもしれないが、作家は何よりも誰もまだ書いていないことを書きたいのである。その点では、大文豪であろうと新人であろうと生まれて初めての作品を書こうとしている人であろうと変りはない。そして、まだ誰も書いていないこととは、まだ誰も発表していないことの意味ではないのだ。これまでに、作家のみならず、世の人々が誰も思いもしなかったであろうこと、考えもしなかったであろうこと、想像しもしなかったであろうことを書きたいのである。自分ひとりのみの精神に生まれてきたことを書きたいのである。
 そうして、そのことを作品に表現し得た時、専ら自分だけの思い・考え・想像であることについて、誰にも分るはずがないと思うのではなくて、反対にひとの共感を欲して止まない。つまり自己の精神的種族を熱望するのである。
          河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』(2002)



 ものを書く経験がある人間なら、引用の言葉について「なるほど」と思うに違いない。

 書くという行為は必然的に、その作品が誰かに読まれることを前提としている。河野は別の箇所で、「詩歌・俳句は作者が作り、歌い、詠むだけでよいものである。発表することはおろか、書き記すことさえ、本質的な行為ではない。もともと読者を想定するものではないからである」と書いているが、それは言い過ぎだろう。たとえ詩歌俳句であっても、作者は作品を書き記した途端、第一読者として、作品にとっての〈他者〉として存在するようになるものである。その言葉がどんな魂の奥深くからの叫びであったとしても、言葉になった途端、名指されたそれは既に〈私〉ではない。要するに、あらゆる言語表現は、〈私〉を言語によって〈他者〉化することによって成立しているのである。これは散文韻文、小説と詩歌俳句の間に関係なく、言語表現一般に言えることだ。

 例えば、歌会に自作の歌を提出するとしよう。作品は当然ながら、多くの人の目に曝され、読まれ、評をされることになる。最初のうちは、自分の想定した通りの読みを期待して一喜一憂するが、歌会に慣れてくると、自作がどんな風に読まれるかを見守る余裕が出てくる。時に、作者の想定を超える優れた読みが登場するのが短歌の世界である。読みとはすなわち、作品に記された〈私〉の精神の痕跡が、〈他者〉を通じて再構築される現象のことを指すのである。

 河野は続けて次のように記している。

 そこで、精神的種族とは何かを知るには、読者としての自分を省みれば、分りやすいだろう。非常に愛読する作家を全くもたない不幸な人には、そう言っても通じないかもしれないけれども……。熱心な愛読者はその作家の最高の理解者は自分ではなかろうか、と唯一の本当の理解者のような気持になる。そして、その作家が自分の生まれた時より百年も前に亡くなっているのであっても、心の底から通じ合えるような、通じ合い得ているような気持になる。作家にとっての精神的種族とは、敢えていえば、そのような人たちのことであり、作家はそのような自己の精神的種族を同時代からばかりでなく、時代を超えて保存拡大のために書く。



 読み返しながら、なるほど、と膝を打った。河野のこうした見解は、「精神的種族保存拡大」という言葉を、ポジティブに取るかネガティブに取るかで意味合いが変わってくるのである。

 ポジティブに取れば「人は誰かに読まれるために作品を書く。書き続けるのが作家なのだ」という風になるだろう。だが、ネガティブに取ると、次のようになる。「作品なんて、読める人に読んでもらえたら、それで良いのだ」。

 この差は、読者をあらかじめ限定していないかどうか、という問題に繋がる。作者という〈私〉から生まれた作品が、〈他者〉化した言葉として、読者という〈他者〉に届く。にもかかわらず、ネガティブな発想で「精神的種族保存拡大」を望むと、作品がいつまでも〈他者〉化しない。作品は〈私〉に占有されたまま、読めるものなら読んでみろと、むしろ〈他者〉の侵入を阻んでしまう。あるいは、自分は「精神的種族」になれやしないと感じるネガティブな読者の側が、作者によって作品への侵入が阻まれていると勘違いをしてしまう。

 このネガティブな〈他者〉観は、小説よりもむしろ、短歌や俳句といった定型詩の方が陥りやすいように思われる。これらの短詩は、なにより定型によって言葉が限定されるため、散文のように言葉を尽くして説明するようなことができないからだ。ことに短歌は、作者と読者の間にある距離が、読みに直接的に影響を及ぼしやすい詩型だと言える。この距離は地理的な距離であったり、世代的な隔絶であったりするが、限られた言葉によって表現された作品に対して、必要以上に「距離」を感じてしまうのだろう。だが、伝えたいからと言って「説明」をしたり、作者に「説明」を求めたりしてしまっては、作品の自立性が崩壊してしまう。歌会で自作の解題を長ったらしく繰り広げる人間の面倒くささが、ここにある。ダラダラと自作を語る作者や、それをうんうんと頷きながら聞く読者は、「読まれる」ことと「伝わる」こととが、イコールでしかないのだろう。

 もしかすると、言葉は伝わって当然だという安易な過信が、今もどこかで僕たちを取り込もうと狙っているのではないだろうか。伝わる人に伝わればいいと〈他者〉を拒絶する作者、自分には伝わらないと〈他者〉であることを放棄する読者。これらは元を正せば、結局は同じ病に侵されるのである。言語芸術について、「伝わる」という安易な定規を用いて語ることは、いい加減やめた方がいい。

 僕がこんなことを思うのにはちゃんとした理由があって、その点を踏み込んで書こうとしたのだが、今回は紙数が尽きた。勘のいい皆さんはもうお分かりだろうが、僕は今、短歌界における「世代間の差」について書こうとしている。そして、短歌においては「精神的種族保存拡大」の「保存」の部分が稀薄になりがちな現状があるのではないか、と考えている。詳細は次回。


  古書の染みうつくしくあれ短篇の読後に香るいきの余白よ
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Author:りったん
第五次立命館大学短歌会です。40年の時を経て、2012年9月25日(火)に再結成しました。通称:立命短歌会。りったん。大学公認団体です。

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