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支線沿線〈4〉 あたらしい読者を求めて(濱松哲朗)

 前回、「作家は自己の精神的種族保存拡大のために書く」のであり、「心の底から通じ合えるような、通じ合い得ているような」「自己の精神的種族を同時代からばかりでなく、時代を超えて保存拡大のために書く」のであるという、河野多惠子の言葉を引きながら、創作における作者と読者の関係、すなわち、言葉という〈他者〉を介在して成立するコミュニケーションの在り様について考察を始めたところであった。

 繰り返しになるかもしれないが、作者という〈私〉にとって、読者が〈他者〉である以前に、言葉そのものがまず〈他者〉なのである。作品がどんなに独自の表現であったとしても、言葉(表象記号と言い換えても良い)である限り、作品は自ずと他者性を含有している。〈私〉の作品が理解されないと言って過剰に嘆く作家は、まずはおのれの言語観を省みて、言語を通じて〈他者〉を受け容れる姿勢を身に着けた方が賢明であるし、一方で、読者の方も、どうせ私には理解できないのだと諦めてしまうのではなく、きちんとコミュニケーションの回路を開いておく必要がある。その際、作品を「理解する」ことが、イコール「伝わる」こと、ではないことに注意しておくべきだろう。

 この「理解する」という行為の難しさについて、一ノ関忠人は「現代短歌新聞」2015年1月号において、今の二十代、三十代の歌人が作る短歌について次のように書いている。

 穂村弘以後という確認ができたものの、理解は届かない。生沼(義朗)は「重要なのは各作者が意識的に解体と新陳代謝を起こしていることだ」と言い、更に次の後続世代が出て来た時に成果が明瞭になると書く。その時まだ彼らはこのような作品を作りつづけているのだろうか。
          一ノ関忠人「世代間断層」(「現代短歌新聞」2015年1月号)



 一ノ関の短い記事の中に名前が挙がっていた若い歌人とは、順に、吉岡太朗、永井祐、堂園昌彦、望月裕二郎、瀬戸夏子である。そして、理解に苦しんでいる上の世代の例として、「短歌研究」2014年11月号の作品季評における小池光、さいとうなおこ、森本平の三名による『ひだりききの機械』評、生沼義朗の「解体そして新陳代謝」(「短歌人」2014年10月号)、山田消児「謎のありか」(「路上」130号)を挙げている。

 実際、「短歌研究」誌上で吉岡太朗の『ひだりききの機械』が取り上げられた時は、三人の評の息苦しさに驚きながら読んだものだ。何より、読者としての小池、さいとう、森本の三名が、ちっとも楽しくなさそうなのである。座談会からは、苦しみながら読んだ、という印象がぬぐえない。これが一ノ関の言う「世代間断層」なのだろうか。

小池 作品というのはもっと客観的なものであって、読者がいて、その間でコミュニケーションが交わされないと作品が作品にならないという感じがする。その手前で少し自閉しちゃっているような感じがあるから。これは壁に向かってボールを投げているような感じがするんだね。受け取り手との間でボールのやりとりをしているかというと、やはりそれはしていないので。していないというよりも、することを拒否している感じがして。
森本 たぶん作者の中で、読者ってある程度無意識の枠があると思うんですよ。だから伝わらない人には多分伝わらないと思うし、必ずしもそれをいい悪いとかいうレベルで考えていない、というより想定外の読者は、文字通り想定の外にしている気がするんですよ。
          (「作品季評〈第92回・後半〉」「短歌研究」2014年11月号)



 確かに『ひだりききの機械』には、読者への挑戦と言えるような作品が散見される。「短歌研究」の「作品季評」欄では、コーナーの冒頭に対象となる作品から数首引用されているのが、『ひだりききの機械』からの引用13首は、この三人が「理解する」ことの出来たものに留まっていて、歌集のほんの一部分しか見られていない印象がぬぐえないものだった。

兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
          吉岡太朗『ひだりききの機械』(2014)
ローソンを出るとガストでガストから出ようとするとローソンである
本当は誰のもんやろ構造上流れんはずのわしん涙は
もらさんことに執着しとるひとびとよ ほらあんたもさうなんやろ
OBはもうマンモスになっていてかみ合わなかったすべての会話



 13首の引用と被らないように5首を引いた。吉岡の作品に表出したエネルギーは、世界が、あるいは自らが造られたものであるという自覚に基づいた、痛みのような悲哀である。日常の背後に普段は隠れてしまっている論理が、短歌を通して顕在化する。しかも、吉岡が指摘するものは、誰もが気づいていながら、あまり口にはしたがらないことであり、まさに世界の影の論理というべきものたちである。一首目、「製造番号」と呼ぶことで自らを機械のように表現しているが、同時にセックスを人間製造の機能として表現している。自分の両親の性愛なんて確かに想像したくないが、彼らの性交渉が無かったら自分は存在していない。世界の論理としてここまで嫌なものはないだろう。消費社会、就職氷河期などは分かりやすい例で、四首目に至っては、人間の排泄や糞便の話である。しかしこれとて、生物にとって必然の論理であって、逃れることができないものである。

 三首目はもしかすると、吉岡の絶唱と言えるのではないだろうか。「構造上」という言葉が気になる、という見解はあるだろうが、それならば何故、作者が「構造上」と歌に詠まねばならなかったのかを考えた方が、読みとしては断然誠実である。そして、読みの誠実さは世代格差によって失われるものではないことくらい、おのずと分かるものである。「世代間断層」といった意味のことが叫ばれる時の構図が、十中八九、上の世代から下の世代を見た時の言葉であることに、私は強い危惧を感じる。むしろ若手の方が短歌史をフラットに俯瞰することが出来る立場にいるのではないのか、と思えてしまう。

 世代ごとにそれぞれ、当然とされる認識の背景や生まれ育った社会環境などが異なってくることは、いつの時代も言えることである。ただ、文学作品はそれを超えて読まれるべきものではないのか。歌集を読む時に真っ先に奥付を見て、作者の生年や所属を見てしまうようでは、「世代間断層」は埋まらない。仮に、吉岡の作品がどういった「精神的種族」を保存拡大しようとしているのかが読み解きづらいものであるとしたら(個人的には、吉岡作品はテーマが明確であるがゆえに、堂園や瀬戸よりも格段に「伝わりやすい」作品だと思うのだが)、我こそは吉岡の読者であると信ずるものが、積極的に吉岡を論じていく必要があるだろう。それが、いい読者であろうとすることではないのだろうか。

 合評に参加した三名とて、必ずしも吉岡の作品を根っから拒絶しているわけではない。むしろ、年の離れた吉岡の歌集をどうやって自分たちが読み解いたら良いのか、積極的に悩み抜いているように見える。その点に私は好感を持った。

さいとう この人のは疲れなかった。なぜかわからないけど。
小池 それは良い読者ですよ。
さいとう いい読者でありたいと思って読んだということは、確かに言えていますけど。
小池 一生懸命読んだけど、やはりねえ。



 吉岡の作品は今月、二度目の批評会にかけられることになっている。「世代間断層」が仮に存在しているとしたら、私たちはそれを埋めるために、「精神的種族保存拡大」に努めなければならない。それが優れた読みの提示によって為されることは、短歌史の中でも明らかであるはずだ。そして、「精神的種族保存拡大」を強く願ってやまないのは、何より吉岡本人ではないだろうか。関西と関東で二度開かれることで、作品の読みが深まることを、あたらしい読者が誕生することを、作者自身が待ちわびてやまないのではないだろうか。――私はこんなことを強く思わざるを得ないのである。


  適切に配置されたらぼくたちは各々適宜ゆるキャラになる
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Author:りったん
第五次立命館大学短歌会です。40年の時を経て、2012年9月25日(火)に再結成しました。通称:立命短歌会。りったん。大学公認団体です。

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